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2022年3月31日 (木)

時間とは

「時間とは何か?」
という問いに答える
といっても「時間とは何か?」という言葉で問題を正確に表せているとは思えない。
「時間とは何か?」と時間に関して意識を向けたときに感じるこの圧倒的違和感を解消することが目的。
なぜこのような不思議な感覚を受けるのか?
それは大まかに言って世界が静的に実在しているということを暗に仮定している先入観と
この明らかに流れている時間の感覚との隔絶。
ここをまず明晰化する。
古典物理的な物理的決定論的な素朴実在論によっては単に世界は四次元的な構造として定まっている。
(量子論では決定論どころか実在論すら否定されているので後で扱う)
三次元を二次元に置き換えれば一個の巨大で分厚いパラパラ漫画のようなブロックのような世界がただ存在するだけ。
しかしそのパラパラ漫画をめくるという動作は存在しないし
どのページが「今」めくられているかも定義できない。
「今」という瞬間を古典物理学の範囲内では定義できない。
時刻tにおけるtがtにとっての今であって絶対的今などは定義しようがない。
そしてページのうち一枚に描かれた絵が決まれば過去も未来もすべての絵が決まってしまう
(正確には位置と運動量が決まる必要があるのでパラパラ漫画には運動量も書き込まれている必要があるが)
そんな静的な世界像に対して、
明らかに日々日はのぼり、川が流れて、火は燃えて、人は歩き回って、音楽を聴いたり、ものを食べたり、予定を立てたり
と行動する世界に時間の流れが存在するように感じる。
この二つのものの見方にどう折り合いをつけるか?
というのが「時間とは何か?」といったときに求めていること。
パラパラ漫画をめくるという動作が入るとわかりにくいので替わりに
世界を一個の4次元的ブロック状の構造としてとらえたときそこで流れる時間をYouTubeのシークバーが移動するように
「今」を表す断面が移動することでイメージする。
しかしそのような特別な断面も存在しないし
(話はそれるが相対論的には移動する観測者にとっては断面が斜めになるので世界共通の「今」は定義できない。)
、そのような時間の流れも定義できない。
そこが問題。
しかしこのシークバーのアナロジーで何かを理解した気がする。
「時間とは何か?」に対する答えとして例えば川の流れを見せてこんな感じのものだと答えるよりも
このシークバーの喩えは実在と時間の流れに関してなにか意味のある関連を示しているようにも思える
「今」という言葉は「時刻tにおける時刻t」
「過去」は「時刻tにおけるs<tとなる時刻s」
「未来」は「時刻tにおけるs>tとなる時刻s」
といえば一応定義できるが時間の流れが定義しようがないのはなぜだろう?
単に流れの感覚のクオリアを言語化できないという別種のクオリアの問題の一例に過ぎないのか?
そういう部分もあるかもしれないけれど
先ほどのシークバーの動きとして定義できた部分はなんだった?
単に動きのクオリアを見せただけでなくなにか意味のある事を言ってなかった?
単に四次元ブロックの一断面を選んで例えばこれが「今」だとか言って「今」を定義したわけではない。
各断面にとってのその断面自体が「今」だった。
同様に「時間の流れ」もそういった相対的な定義が必要なのでは?

もう一度問題に立ち返る。
「今」は一応実在論的世界でも定義できた。
しかし「時間の流れ」は実在的世界に入り込む余地すらないように感じるという問題。
しかもシークバーのアナロジーによって一見実在的世界内に直示できているかのように思えた問題。

「今」を実在論的に定義した際にある実在的世界に存在する
観測者を固定してその観測者に対して「今」を定義した。
(ここにも問題はありそう。特に観測者を物理的存在としているあたり。)
つまり実在論的世界に特別な「今」を定義したわけではない。
同様の戦略で行くと時間の流れも世界の中にあるわけではなく観測者にとってのものとして理解できないか?
同様に世界内の観測者の軌跡を物理的実在として捉えたときその観測者の軌跡にとって時間の流れとは?
やっぱダメか?
時間の流れを世界の中に実在するものとしてとらえようとして混乱が生じているってとこまではいい。
何か自己言及のような。
一旦二次元世界の住人になった気になって考える。
三次元の中のブロック状の構造が時間軸も含めた世界。
その三次元的実在世界には何も時間の流れはない。
しかしシークバーみたいに現在を表す時間断面が移動するイメージは二次元人にとって
自分の認識が限られていてその認識が変化していくことを説明する。
時間断面の移動というイメージの変化も認識の変化の一種。

普通に人が三次元世界を動き回るイメージとどう違う?
例えば複数の人が動き回る三次元空間を考えたりすることとシークバーのアナロジーは。

なぜ世界の時間断面のような世界共通の時間の流れを想定してしまうのか?
単に脳が世界全体を広範に捉えてるからってだけで
世界のうち選択された部分が変化していくっていうイメージがシークバーのアナロジーの一般化で
シークバーみたいな世界断面っていうのは世界の部分集合の選択された部分が変化するっていう時間の流れの特殊例?

となると時間の流れっていうのは選択された世界の部分集合が変化していくことと言えるのだけれど
「変化していく」っていうのがやっぱりわけわからん。
二次元人にとっては自分の二次元的認識が変化していくのを感じているのだけれど
もしもその自分の置かれた状況を二次元的立場から三次元的静的世界を眺めた時に
感じられる二次元的変化がこのシークバーのアナロジー

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